あなたに会えたあの日から

生まれる前のやくそくが、今、現実になる

紅い花

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こんばんは。nicosaです。

 

11月の末から体調を崩していました。

 

今日は、この数日間熱にうなされながら考えていたことをおはなしします。

テーマはたぶん二つ。今日はその内の一つ。

 

 

何十年か前の11月のこと。わたしは生まれました。小さな小さな赤ちゃんで、保育器の中でしばらくの間過ごしたそうです。

 

生まれた時は父と母と3人でくらしていて、2歳の時に、わたしの祖父が建てた漆喰の壁の出窓のある家に引越しました。

 

その家で、イラストレーターの叔母と、製薬会社で品質管理をする父と、専業主婦の母と暮らしました。しばらくして、わたしは祖母と祖父と曽祖父の暮らす家にあずけられることが多くなりました。

子育てを終えた祖母と祖父は、曽祖父の暮らす田舎の家へ引き上げていました。

小さな頃は一人で過ごすことが多かったけれど、ちっともさみしくはありませんでした。

小さな生き物たちや、花や木や石や風。

そういうものがわたしの友だちでした。

 

しばらくして弟が生まれて、

わたしは家へ戻り、幼稚園へ通いはじめます。母の決めたキリスト教系の幼稚園で、教会の講堂がそのまま園舎としても使われている幼稚園でした。わたしはそこで、「としょしつ」という不思議な部屋を見つけました。

先生は、内緒で、わたしをその部屋の中へ連れて入ってくれました。毎週木曜日。

幼稚園が終わったあと。

 

あのときから、

ずいぶん時が流れました。

 

いろんなことがあったけど、

すべて、それで良かったと、今は思っています。

 

わたしの父は無口な人で、誰に聞いても「穏やかで優しい人」と言われますが、子どもの頃、わたしはほとんど父と話したことがなかったので、父がどういう人間なのかよく知りませんでした。わたしの父親像は、母が作り上げ、わたしに植え付けたものでした。最近、自分の父親はこういう人だったんだと知りました。

飼っていたオスとメスのセキセイインコがいつも喧嘩をしているのを見て、オスとメスを「別の籠に入れてほしい」とわたしが頼んだ時、「その内仲良くなる」と父は小学生のわたしに言いました。「そのうち仲良くなる」その言葉は、父の考え方や生き方、時代背景、それを全て表しているとわたしは思っています。父の言葉に反して、セキセイインコのオスは、自分で籠を抜け出し逃げて行きました。

夫の暴力に悩むわたしには「もう少し我慢できないのか」や、幼少期の夫の家庭で起こっていた家庭内暴力についても「それが当たり前の時代だった」など、そういうことを当然のように言える人なのです。

 

暴力というのは、暴力をふるう人と暴力を受ける人以外に、暴力を傍観する人がいる場合、「傍観される」という行為により「正当化」され「その存在を許される」のだとわたしは思っています。わたしは子どもの頃、その現場を目の当たりにしています。

わたしは傍観者の目を良く知っています。いじめを受けるわたしを、教室の壁際に並んで、傍観するたくさんの目。何も言わずに「いじめ」を見ている。その傍観という行為によって、そこにある暴力はある意味「正当化」されて「存在することを許される」。否定されないのだから、かき消されるということもなく、よって傍観されることで暴力はそこに定着していく。

 

傍観とは、「やめさせた方がいい」と思いながら何もせずに見ること〜「面白そうだから見させてもらおう」まで、そこに内在する感情が何であろうと「見て見ぬふりをする」「見て何もしない」、つまり「当事者ではないという態度で見る行為」全般を指す。

暴力を傍観する人が傍観のその次に起こすアクションは、おそらく本人たちが思う以上に大きな力を持つのだろうと感じます。暴力の撲滅においては、当事者はもちろんですが、往々にして傍観者の影響力は大きいと言えるかも知れません。

 

見せものでも見るかのように。無表情の顔、面白いものを見たとニヤける顔、悲しそうに目を背ける顔。傍観者たちの顔顔顔。わたしが見た傍観者たちのたくさんの顔。

これは世の中の縮図。

父はおそらくたくさんの暴力・暴言、ハラスメントのあらゆる類を目の当たりにしながら、いつもそれを傍観して来たのでしょう。父だけでなく、多くの人が、そうすることで、ひとつの時代を作ってきた…と言えるのかもしれません。

良くも悪くもなく、無意識の内にシステム化されたともいえるイジメとその傍観による暴力の正当化と定着により、この社会はある意味「正常に」運営されてきたと言えるのかも知れません。またその社会の中では、「傍観者」は必要だからこそ存在したとも。

 

 

大学受験の際、親に相談せずにお金のかかる医歯薬系受験を最終的にあきらめたとき、帰宅した父に突然頬を殴られました。

「どうして親に相談しない。なんのために親が居る」と睨みつけられました。わたしはそれをずっと父の優しさだと思っていましたが、もし優しさからの暴力であったならば、今でも忘れられないほどの鬼のような赤い顔を父はあの時していなかったでしょう。それはただの親のエゴだったのかも知れません。しかしその真意はわたしには分かりません。

 

その暴力を傍観ではなく「肯定」した母。その加護の下でしか生きられなかった母。今もそこから逃げ出せない母。

 

わたしはもう、この人たちを安心させるために、自分の進む道を選ぶことをやめました。

あの時、やめたはずだったのに、

まだやめられていなかったのです。

 

でも今は、とてもスッキリした気持ちです。

親というものの思う「子の幸せ」ではなかったとしても、わたしが「わたし」で居続けることでわたしが見つけた幸せを、親と共に喜べる日が来ればそれでいいのだと思います。

 

それは、わたしが親になって初めて気づいたこと。わたしの思う幸せがcicoの幸せとは限らないということ。

cicoに、心から感謝です。生まれて来てくれてありがとう。だいすきな大切なcico。

 

 

熱が下がってようやく台所に立てた日の夜、素敵なことが起こりました。

突然、花火が上がったのです。

冬の夜空に。

わたしの住む窓からとても良く見える位置に。

紅い花が咲きました。

 

花火の思い出はたくさんあるけれど、この紅い花火は、また印象深い花火になりました。

 

 

nicosa